広島市の水回りのご依頼伺います! 賃貸マンションで水道と壁の間からビチャビチャと水がしみだして水漏れしており、交換したいが方法がわからない、賃貸マンションで蛇口のパッキンからチョロチョロと水が溢れて水漏れしてしまって、蛇口を捻っても止まらないので新品の物に取替えてほしい、室内を詰まらせてしまい水が逆流しているため、つまりをなんとかしたい、トイレに財布を落とした交換したいが方法がわからない、キッチンに携帯を落として水没させてしまった、見つからない、気になっていたロータンクのところに水が溜まっていて水が流れて水漏れしているので、最短で水漏れしないようにしてほしい、台所をもっとデザイン性の高いものにリフォームしたいので料金を見積もりしたい、などのあらゆるトラブル迅速に伺います! 安全な人生のお力になれたらと社員ひとりひとりが労力を惜しみません。受付は24時間年中無休です。ご相談ください。広島市で水回りのお悩みは広島市出張の水道屋が対応します。
広島市で水のトラブルはお任せください
・トイレに紙や物を落として詰まらせた
・本体のぐらつきや水の勢いが弱くなった
・シンクの水が漏れたり、排水口から水が流れない
・お風呂、洗面所の蛇口から水が出ない
・ポタポタ漏れて気になる
・シャワートイレ・ウォシュレットの交換や排水管の洗浄を依頼したいなど、
水回りのお困りごとなら年中無休のフリーダイヤル通話料無料で受付しております。
広島市 水 出張エリア
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広島市(ひろしまし)は、日本の広島県にある都市です。政令指定都市で、同県の県庁所在地です。中国地方の中南部、広島県西部(安芸国)に位置し、中国・四国地方で第1位の人口を有しています。
世界史上初めて核爆弾(原子爆弾)で爆撃された都市として、世界的に知名度が非常に高いです。それ故に、国際平和文化都市としても一定の影響力を持っていて、広島市長の発案で創設された「平和市長会議」には150を超える国から4600以上の自治体が加盟しています。第二次世界大戦以前には軍事都市であった歴史とは対照的です。
「広島市への原子爆弾投下」も参照
古代・中世には、現在の広島市街地がある太田川デルタは形成されておらず、安芸国の中心としては国府が開田荘(現安芸郡海田町)におかれ、太田川中下流域の祇園(右岸、現安佐南区)・戸坂(左岸、現東区)から可部(現安佐北区)にかけて荘園、郷が広がっていました。16世紀末、戦国武将の毛利輝元が太田川デルタを干拓して築城を開始したのをきっかけに地域の中枢機能が太田川デルタへ移り、都市としての広島の発展が始まったのです。江戸時代には、広島藩42万石の城下町として藩主浅野氏のもとで発展しました。明治時代に入ると、陸海軍の拠点が集中する軍事都市となり、特に日清戦争時には広島大本営が置かれて明治天皇が行在し、第7回帝国議会は広島市で開かれるなど、臨時の首都機能を担ったのです。
第二次世界大戦末期の1945年8月6日、アメリカ軍の戦略爆撃機B-29「エノラ・ゲイ」によって広島市中心部の相生橋上空に原子爆弾「リトルボーイ」が投下され、きのこ雲が立ち上り、市街地は一瞬にして破壊されました。投下当日中に数万人、1945年末までに推計13万人の人命が奪われ、生存者も火傷痕(ケロイド)、放射線後遺症、精神的後遺症(PTSD等)、遺伝への不安に生涯苦しむなど、市民が経験した苦痛は人類史上類を見ないものでありました。
原爆投下後は一時的に人口が20パーセント減少しましたが、戦後は重工業や自動車産業を中心に復興し、現在では日本の主要な工業都市となっています。1980年4月1日には札幌市・川崎市・福岡市(3市とも1972年4月に指定)に続いて全国で10番目となる政令指定都市に指定されました。1985年3月に人口が100万人を突破し、現在では全国の市で10番目の人口を抱えます(→日本の市の人口順位)。
地理的には山陽地方のほぼ中南部に位置していて、太平洋ベルトを構成する広島都市圏の核となっています。京阪神と福岡都市圏のほぼ中間に位置しているため、中国地方あるいは中国・四国地方を統括する政府機関や、全国規模で展開している企業の地方拠点も多く置かれています(支店経済都市)。また、瀬戸内工業地域を構成する西日本有数の工業都市でもあり、沿岸部は工業地帯となっています。また、沿岸漁業も盛んです。
近年では、西風新都などの郊外のニュータウンでの人口増加も引き続き見られる一方で、平和大通りに新たに高層ビル群が生まれるなど都心回帰の傾向も見られます。
中区以外においても、広島駅周辺を始め、宇品や緑井、段原などの開発・再開発が進み、既存の商工センターや西風新都と併せて、都市拠点機能が活性化しています。交通インフラ面では都市高速道路である広島高速道路の整備のほか、広島電鉄による市内線路面電車のLRT整備や、広島アジア大会の開催(1994年)に合わせて開通した広島高速交通「アストラムライン」の延伸、およびJR山陽本線とのアクセス改良計画が進むなど多方面から都市機能の充実が進められています。
ちなみに同市は別名、「3Bの街」とも言われています。これは、
市内にはバス(Bus)路線が多いです。 東京、大阪等に本社を持つ企業の支店(Branch)が多いです(支店経済都市)。 市街地がデルタ地帯にあるため、長さ2メートル以上の橋が(Bridge)が約2,600もあります。
と言うことに由来したものです。またこれに加えて、
銀行(Bank)全国の地方銀行や都市銀行が支店を置いていることが多いです。 バー(Bar)市内にある流川は中四国最大の歓楽街で、同地区にはバーやスナック、キャバレーなどが多くあります。
などを含めて、「4B・5Bの街」と言われる場合もあります。
南は瀬戸内海に面し、広島湾となっています。市の中心部を流れる太田川の河口に開けた三角州上に市街地が形成されています。太田川デルタを中心に広島平野が形成されていますが、それを取り囲むように市の西部・北部・東部は丘陵地帯となっています。
市域の80%は丘陵部で、平地部は太田川デルタの海抜ゼロメートル地帯と北の祇園大橋(海抜5m)から可部(海抜22m)にかけての河谷平野部がほぼ平地部ですが、その周辺の山腹は宅地化が進んでおり安佐南区の伴南は標高約220m、山本新町は約197m、西区の己斐大迫は173m、古田台196メートルなどで造成地は山の中腹あたりまで広がっています。もちろんデルタ地帯からの連続では無い地域では佐伯区湯来町の杉並台ように標高400m 近いところもあります。広島市の最高地点は佐伯区湯来町と廿日市市玖島にまましたがる大峯山(おおみねやま)で標高1040メートルです。
以上の広島市の造成地などを含めた可住地面積率は3割ほどで市域の7割は山林です。
山:大峯山(1040m)、白木山(889m)、備前坊山(789m)、呉娑々宇山(682m)、武田山(佐東銀山城 410.9m) 川
デルタ6川…太田川(太田川放水路)、天満川、元安川、旧太田川(本川)、京橋川、猿猴川 その他…三篠川、瀬野川、八幡川、府中大川、古川、安川、山本川、二又川
島:似島、金輪島、宇品島(元宇品)、峠島 港湾:広島湾、広島港(旧宇品港)、草津港
気候
広島市 |
---|
雨温図(説明) |
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1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | ? 45 ? 10 2 | ? 67 ? 11 2 | ? 124 ? 14 5 | ? 142 ? 20 10 | ? 178 ? 24 15 | ? 247 ? 27 19 | ? 259 ? 31 24 | ? 111 ? 33 25 | ? 170 ? 29 21 | ? 88 ? 23 14 | ? 68 ? 17 9 | ? 41 ? 12 4 | 気温(°C) | 総降水量(mm) | 出典:気象庁 |
|
インペリアル換算 |
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1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | ? 1.8 ? 49 35 | ? 2.6 ? 51 36 | ? 4.9 ? 57 41 | ? 5.6 ? 67 50 | ? 7 ? 75 58 | ? 9.7 ? 81 67 | ? 10 ? 87 75 | ? 4.4 ? 91 77 | ? 6.7 ? 84 69 | ? 3.5 ? 74 58 | ? 2.7 ? 63 47 | ? 1.6 ? 54 39 | 気温(°F) | 総降水量(in) |
|
沿岸部から中山間地域までを市域にもつため気候は複雑です。市域北部(安佐北区、安佐南区、佐伯区北部)は日本海側気候と瀬戸内海式気候の境界に当たりますが、市域南部は瀬戸内海式気候で晴天の日が多く温暖です。夏は暑く、瀬戸内海特有の凪も発生します。しばしば摂氏35度以上の猛暑日を記録します。冬には空気が乾燥して晴天になる日が多いですが、冬型の気圧配置が強まると北西の季節風の影響で雪が降ることもあります。山間部の気温は緯度の割に低く、冬にはよく氷点下まで下がります。降雪日数は瀬戸内海沿岸都市の中では多いですが、旧市域では積雪は年1、2回程度です。市域北部の山沿いでは頻繁に積雪します。路面凍結も起こり、国道488号のように冬期は閉鎖される道路もあります。冬から春にかけては、中国大陸由来の黄砂が飛来して視界が霞んだり、うっすら積もることもあります。広島気象台は1987年12月22日に中区の江波山公園から繁華街の中区上八丁堀に移転したため、気温などがデータ上大幅に上昇しました。旧広島気象台は広島市江波山気象館として保存されています。
広島市の年降雨量は1349mm で全国平均(1596mm)より少ないですが、瀬戸内でも顕著な少雨地域である岡山市(921mm)や高松市(872mm)よりは多いです。年間降水日数は90日で、全国5番目に降水日の少ない県庁所在地です。
広島地方気象台(中区、平年値:1981-2010)の気候 |
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月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
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最高気温記録 °C (°F) | 18.8 °C (°F) | 9.7 °C (°F) | 5.2 °C (°F) | 1.7 °C (°F) | -8.5 降水量 mm (inch) | 44.6 降雪量 cm (inch) | 5 日照時間 | 137.2 | 139.7 | 169.0 | 190.1 | 206.2 | 161.4 | 179.5 | 211.2 | 165.3 | 181.8 | 151.6 | 149.4 | 2,042.3 |
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出典 1 気象庁 |
出典 2 気象庁 |
広島(広島地方気象台・江波山公園)・1961 - 1990年平均の気候 |
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月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
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平均最高気温 °C (°F) | 8.3 °C (°F) | 4.0 °C (°F) | 0.4 安佐北区)の気候 |
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月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
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最高気温記録 °C (°F) | 16.6 °C (°F) | 8.4 °C (°F) | -0.4 °C (°F) | -8.1 降水量 mm (inch) | 60.3 (? 1.0 mm) | 9.9 | 10.0 | 11.1 | 10.0 | 10.0 | 11.6 | 11.9 | 8.5 | 10.2 | 7.1 | 7.6 | 9.0 | 116.9 |
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平均月間日照時間 | 96.9 | 110.0 | 146.2 | 174.9 | 183.7 | 138.0 | 149.4 | 180.7 | 147.0 | 161.3 | 131.3 | 109.2 | 1,728.6 |
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自然災害
近くに火山や大規模な活断層がなく、大きな地震の頻度も低いです。広島市のある広島県南部は、台風や梅雨時の豪雨による水害は比較的少ないとされてきましたが、1989年から2011年の23年間の累計被害金額を県別で見ると全国12位と比較的上位で、ひとたび災害が起きると災害への対策不徹底や防災意識の低さがしばしば指摘されています。
「広島土砂災害」も参照
水害
市域では豪雨・台風に伴う太田川の氾濫・洪水が歴史上何度も起きています。台風被害は1943年(昭和18年)9月、1945年(昭和20年)9月(枕崎台風)、1950年(昭和25年)9月など9月・10月に集中しています。特に原爆投下1ヶ月後に襲った枕崎台風では原爆で建造物がダメージを受けていたところに太田川の堤防決壊が加わり、数百人の死者・行方不明者を出す惨事となりました。1960年代以降、太田川放水路開通や高瀬堰・大芝水門設置などの治水対策により下流デルタにおける決壊・洪水は起きていません。一方でデルタ地帯では近年でも高潮による浸水被害が起きています。
1991年(平成3年)9月の台風19号(りんご台風)では、広島市で最大瞬間風速58.9メートルなど猛烈な風による高潮被害・塩害が広がり、長時間停電したり、街路樹や柑橘類などの果樹が枯死したりする被害が起きました。中国電力はこれをうけて管内の電柱に塩害対策を施しましたが、2004年9月6日の台風18号接近では市内で最大瞬間風速60.2メートル(広島地方気象台観測史上1位)の暴風が吹いて再び大きな被害を出し、対策不足が指摘されました。
1999年6月末の集中豪雨(6.29豪雨災害)では広島市と呉市に被害が集中し、市内では佐伯区と安佐北区を中心に死者19名・家屋全半壊100棟を超す被害があったため、災害救助法および被災者生活再建支援法の適用を受けています。
2014年8月20日未明には市北部で3時間雨量が204mm(安佐北区三入)などの猛烈な雨が降り、安佐北区可部・安佐南区八木・同山本・同緑井などで同時多発的に大規模な土石流が発生し、死者74名、重軽傷者44名、家屋の全半壊255棟などの甚大な被害が生じました(→平成26年8月豪雨による広島市の土砂災害)。
土砂災害危険箇所
広島市は土砂災害危険箇所を合計6040か所指定しています。内訳は安佐北区2085か所、佐伯区1019か所、安佐南区985か所、安芸区843か所などとなっています。高度経済成長期の人口増に伴い宅地開発が進んですが、造成対象地域は多くが平野部周縁の傾斜地・谷あいであったため、土砂災害の危険が指摘されました。特に1999年の6.29豪雨災害の後に調査・研究が進み、指定数が増えました。
地震
市域の多くを占める太田川デルタは中国山地から流出した真砂土による沖積平野のため地盤は軟弱で、地震ハザードステーションの地震動予測地図では市北部の低地部(長束~可部)では「30年以内に震度6弱以上の地震」が起きる確率は26%以上としています。沿岸部の確率はこれより小さいです。
太田川デルタでは江戸時代以降に6回の大地震に遭遇しています。2001年(平成13年)3月24日には安芸灘を震源とする芸予地震(マグニチュード6.4)が発生し、広島市でも震度5強(西区、安佐南区)を観測しました。市内では死者は出なかったのですが、多数の負傷者が出たほか宅地造成区域の法面が崩れたりです(安佐南区相田町)、道路法面が沈下・亀裂を起こしたりしました(西区己斐上)。また草津港(広島港草津地区)では岸壁が崩れる被害がありました。
地名
市名の由来
広島という名称は、戦国時代末期の1589年、この地を支配した戦国大名の毛利輝元が築城に際して命名しました。第二次世界大戦後に新字・現代かなづかいになる以前は「廣島(廣嶋)」と表記しました。
輝元の時代、この地は太田川河口デルタの形成途上にあり、箱島(今の白島地区)や日地島(比治山)などの中洲が点在する五箇庄(ごかのしょう)と呼ばれていました。これらの中で最も広い島(実際には2番目)に築城したことから「広島」と命名したとされりますが、輝元には別の意図もありました。広島築城事業は、当時120万石の「西国の雄」毛利家が、本拠地をそれまでの吉田郡山城から移して新たに築こうという大事業で、城の名称には家運長久の願いが込められました。毛利氏は代々、大江広元の末裔であることを誇りとしていて、「元」のほか「広」も諱に使用する字の一つとしていたことや「広大」「末広」の良縁起から「広」の字を冠することとし、「島」については城普請案内を務めた普請奉行の福島元長の名字からとって命名しました。
「広島へ行く」
西日本の方言で、「広島へ行く」「ヒロシマにゆく」という表現が、「死ぬ」を婉曲に表す忌み言葉として使われることがありますこの「広島」が本来広島城下を指したかどうかは不明ですが、実際には広島市を念頭に置いて使用されています。1741年(寛保元年)の『夏山雑談』に記述があり、起源は近世以前までさかのぼります。
柳田國男は『廣島へ煙草買ひに』という著作の中で、「ヒロシマ」は「会津檜枝岐などの狩詞で人里のことであった」、「ヒロシマへユク」は「壱岐では死ぬの隠語に代用して居ることが最近刊行せられた山口君の続方言集 に見えて居る、ヒロシマといふ語にもし斯ういふ感覚が伴なふことを知って居たら、藝州の殿様も是を御城下の名にはしなかったかも知れないです。」と記し、さらに「タバコ」を「関西地方は殆ど一般に、休息の同義語に用いられている」とし、「廣島へ煙草買ひに行く」というのは、伊予の内海側では「死ぬ」という代わりに時々使われる気のきいた忌み言葉になっている、と説明しています。
南海日日新聞の2000年12月16日付記事「ヒロシマへ行くこと」では、愛媛県八幡浜市周辺で現在も使われ、『八幡浜市誌』に採録されているといい、起源については死の穢れを極端に避けた厳島(安芸の宮島)の風習に由来する可能性を指摘しています(島全体が神聖とされた厳島では、死者が出ると島外で葬儀・埋葬を行い=「ヒロシマに行き」、遺族は服喪期間が明けるまで島に戻れなかった)。
今治市周辺でも高齢者は聞き慣れた表現であるといいます。ただし原爆のイメージからか、新しい世代はタブー表現として(前述のような意味合いでの)使用を避ける傾向があります
広島市の地名
「広島市町名・地区一覧」も参照
旧広島市には海や干拓に関連した地名、太田川下流域には古代からの水運に由来する地名があります
島 - 江波(えば・江波島)、白島(はくしま・箱島)、仁保(にほ・仁保島)、比治山(ひじやま・日地島)、吉島(よしじま・古くは葭島と書き、葭の茂っている中州の意味とされる) 川 - 打越(洪水の冠水を堤防を壊して排水する「内越」から)、流川町(縮景園の排水路として開かれた流川に由来)、薬研堀(通りに沿う水道の名に由来)、川内(太田川と古川に挟まれた中州に由来)、天神川(尾長天満宮から流れる天神川に由来)、横川(太田川がここから西に分流)、広瀬(天満川がカーブする内側に広い瀬が広がっていたことに由来)、可部(河戸、河の口。太田川の合流点であったことに由来) 海 - 草津(神武天皇の「軍津」=いくさつ)、古江(「古ヘ天子ノ御船着シ古キ入江之故事」に由来)、向洋(向い灘) 船 - 加古町(藩船の水主「かこ」が由来)、舟入(船舶の停泊した入り江)、船越(沖合いを行きかう船に由来)、帆立(祇園) 漁業 - 江波(漁場の餌場)、小網町(網を打つ漁民が多く居住し、網打小路と呼ばれたため)、蟹屋町(蟹売りが歩いていた町) 商業 - 紙屋町(伊予国から広島に移り住んだ紙商、伊予屋九郎左衛門に由来)、十日市町(安芸高田市吉田の十日市場を移したといわれる) 神社・寺院 - 胡町(1603年建立の胡子神社に由来)、住吉町(航海の神、住吉神社)、国泰寺町(安国寺恵瓊が開基した新安国寺が国泰寺と改称された)、寺町(寺院が多く集まっていることに由来)、袋町(大黒天の袋をとって「袋町」と命名) 藩政関連 - 基町(毛利氏時代以来の広島開基地という意による)、幟町(藩主の旗印をまかされていた御旗の士が居住していたことによる)、八丁堀(広島城の外堀の1辺の長さが約八丁(約880メートル)であったことに由来)、大手町(広島城の大手門に由来)、京橋町(西国街道の京橋) その他 - 堀越(平清盛が向洋半島に娘を埋葬した際、遺体を荒らされないため半島を島にするために堀を掘ったことによる)
人口
1889年(明治22年)に日本最初の市(31市)の一つになって以来、一貫して中国・四国地方の市で最大の人口を有しています。市制施行当時の人口は88,820人で、国内9番目の人口を有していました(現在は国内11番目)。
城下町広島の人口は、江戸時代中期の正徳5年(1715年)には7万人ほどであったと推定されています。明治維新後の1869年(明治2年)には8万8607人であったのですが、1871年(明治4年)の廃藩置県の際には藩士や奉公人などの転出により7万2715人に減少しました。1889年の市制施行時には8万3387人に回復し、 日清戦争以降に人口が本格的に増加しました。1920年(大正9年)の第1回国勢調査では約16万人となりました。1929年(昭和4年)に周辺7町村を編入するなど戦前を通して人口は増加し、1942年(昭和17年)には戦前最高の約42万人となったのですが、第二次世界大戦の激化により減少し、1945年(昭和20年)の原爆投下で壊滅的な被害をうけました(1945年11月時点の人口は13万7197人)。その後疎開者・避難者や出征者の帰還等に伴い1950年(昭和25年) には約29万人まで回復し、1965年(昭和40年)頃には50万人に達しました。その後は安芸郡、安佐郡、佐伯郡など周辺町村との合併に伴い市域が10倍近くに拡張し1985年(昭和60年)に人口が100万人を突破しました。
広島県の人口は1998年(平成10年)の288万5617人をピークに減少していますが、広島市の人口は増加が続いています。2015年(平成27年)以降は減少に転ずると予想されています。
広島県内で2013年の人口が2000年比で増加した地域は広島市(4.4%)、安芸郡坂町(7.2%)、東広島市(9.3%)、福山市(1.2%)の4地域のみでありました。
広島市の外国人居住者数は1万2976人で、減少傾向にあります。
現広島市域の人口の推移
調査年次 | 人口(人) | 世帯数(戸) | 世帯規模 | 備考 |
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総数 | 増減 | 率 | 総数 | 増減 | 率 | 人/戸 |
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大正9年 | 1920 | 305,773 | - | - | 67,420 | - | - | 4.54 | |
昭和5年 | 1930 | 382,697 | 76,924 | 25.2% | 83,728 | 16,308 | 24.2% | 4.57 | |
15年 | 1940 | 463,670 | 80,973 | 21.2% | 100,489 | 16,761 | 20.0% | 4.61 | |
(22年) | 1947 | 387,477 | -76,193 | -16.4% | 93,504 | -6,985 | -7.0% | 4.14 | 増減は1940年比です。 |
25年 | 1950 | 447,174 | -16,496 | -3.6% | 105,742 | 5,253 | 5.2% | 4.23 | 増減は1940年比です。 |
35年 | 1960 | 590,972 | 143,798 | 32.2% | 155,939 | 50,197 | 47.5% | 3.79 | |
45年 | 1970 | 798,540 | 207,568 | 35.1% | 247,941 | 92,002 | 59.0% | 3.22 | |
55年 | 1980 | 992,736 | 194,196 | 24.3% | 346,718 | 98,777 | 39.8% | 2.86 | |
平成2年 | 1990 | 1,093,707 | 100,971 | 10.2% | 407,899 | 61,181 | 17.6% | 2.68 | |
12年 | 2000 | 1,134,134 | 40,427 | 3.7% | 463,135 | 55,236 | 13.5% | 2.45 | |
22年 | 2010 | 1,174,209 | 40,075 | 3.5% | 512,946 | 49,811 | 10.8% | 2.29 | |
| 2020 | | | | | | | | |
近年の状況
自然増(出生-死亡)は1994年には5852人であったのですが、減少し続けており2012年には1930人となりました。社会増(転入-転出)は2003年まではマイナスであったのですが2004年からプラスに転じ、1千人台の増加があります
広島市域の大半を占める山間部や山間部・島嶼部の隣接自治体では人口減および少子化・高齢化が急速に進んでいます。太田川下流デルタ(中区・南区・西区・東区など)と下流部(安佐南区他)では、60歳以上の人口比率は23%、20歳未満は20%であったのですが、安芸太田町では60歳以上の人口比率は50%、20歳未満は13%でありました(平成17年国勢調査)。
区ごとの人口の推移
広島市の人口は微増していますが、中区は1960年代、南区は70年代に減少に転じています。人口増加の大きい地区は安佐南区で合併後の1975年から2010年にかけて人口は10万人増加し178%となりました。同じ期間に中区は約1万8千人減少し88%、南区は約3万人減少し82%となりました。中区と南区では20世紀後半に継続的な人口流出があったのですが、21世紀に入り増加に転じています。
地域別人口推移 (現市域、単位:人)
行政区 | 昭和40年 | 昭和45年 | 昭和55年 | 平成2年 | 平成12年 | 平成22年 |
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1965年 | 1970年 | 1980年 | 1990年 | 2000年 | 2010年 |
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全市 | 696,845 | 798,540 | 992,736 | 1,093,707 | 1,134,134 | 1,173,843 |
中区 | 167,682 | 155,914 | 138,486 | 134,651 | 124,719 | 130,482 |
東区 | 61,527 | 88,580 | 117,286 | 122,715 | 123,258 | 120,751 |
南区 | 164,177 | 171,615 | 151,534 | 143,938 | 135,467 | 138,190 |
西区 | 119,067 | 139,293 | 155,424 | 178,486 | 179,519 | 186,985 |
安佐南 | 56,060 | 83,779 | 157,728 | 175,211 | 204,636 | 233,733 |
安佐北 | 49,016 | 55,978 | 113,238 | 144,446 | 156,387 | 149,633 |
安芸区 | 39,837 | 51,128 | 65,775 | 70,039 | 75,435 | 78,789 |
佐伯区 | 39,479 | 52,253 | 93,265 | 124,221 | 134,713 | 135,280 |
人口と社会環境
太田川の河口デルタにある西区、中区、南区の地域(旧広島市域にほぼ相当)の面積は現市域の9%を占め、市の人口の39%が居住しています。第2次・第3次産業の経済活動はこの3区に集中していて、製造品出荷額の70%、商品販売額の82%をこの地域が占めます。農業など第1次産業就業者は88%がこの3区以外の市民で、安佐北区(2479人)、安佐南区(1876人)、佐伯区(991人)に多いです。
都市機能も旧市街に集中していて、昼間人口は中区で平方kmあたり5万人以上、西区と南区で1万人以上となっています。同5千人以上の地域は、東が海田町、西が廿日市、北が安佐南区大町まで連なっています。広島都市圏の機能の分散が進展し、中心部への昼間人口流入は減少する一方で佐伯区、廿日市市、広島IC周辺、広島大学が立地する東広島市などで増加傾向にあります。この状況に対し交通インフラ、特に道路整備が遅れていて、広島市の人口百万人あたりの自動車専用道の長さは11kmと、札幌市(21?km)、仙台市(27?km)、福岡市(30?km)と比較して短いです。
広島市の各種統計(2012年)
| 広島市 | 中区 | 東区 | 南区 | 西区 | 安佐南 | 安佐北 | 安芸区 | 佐伯区 |
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総面積 km2 | 905.4 | 15.3 | 39.4 | 26.1 | 35.7 | 117.2 | 353.4 | 94.0 | 224.4 |
可住地 km2 | 283.5 | 15.3 | 17.9 | 22.9 | 29.2 | 43.8 | 84.2 | 26.0 | 44.4 |
可住地比率 | 31% | 100% | 45% | 88% | 82% | 37% | 24% | 28% | 20% |
人口(万人) |
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総人口 | 117.4 | 13.0 | 12.1 | 13.8 | 18.7 | 23.4 | 15.0 | 7.9 | 13.5 |
15歳未満 | 16.8 | 1.3 | 1.8 | 1.8 | 2.7 | 4.1 | 2.0 | 1.2 | 2.0 |
(比率) | 14% | 10% | 15% | 13% | 14% | 18% | 14% | 15% | 14% |
65歳以上 | 23.1 | 2.7 | 2.5 | 2.8 | 3.4 | 3.9 | 3.6 | 1.6 | 2.7 |
(比率) | 20% | 20% | 21% | 20% | 18% | 17% | 24% | 20% | 20% |
昼間人口 | 117.4 | 24.4 | 10.2 | 15.6 | 18.8 | 18.5 | 12.8 | 6.4 | 10.7 |
人口/可住地
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広島市と全国の年齢別人口分布(2005年) | 広島市の年齢・男女別人口分布(2005年) |
■紫色 ― 広島市 ■緑色 ― 日本全国 | ■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性 |
広島市(に相当する地域)の人口の推移 1970年 | 798,540人 | |
1975年 | 923,588人 | |
1980年 | 992,736人 | |
1985年 | 1,051,748人 | |
1990年 | 1,093,707人 | |
1995年 | 1,117,117人 | |
2000年 | 1,134,134人 | |
2005年 | 1,154,391人 | |
2010年 | 1,174,209人 | |
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歴史
古代から中世
古代には太田川デルタは未だ形成されておらず、可部付近まで海が入り込んでいたと考えられています。太田川下流域の長束から可部にかけて古墳群が存在することから、下流域にはある程度の規模の集落が形成されていたと思われます。 7-8世紀の律令の時代には古安芸郡(現在の広島県の西半分)には11ヶ郷があり可部近辺が漢弁郷と呼ばれ、太田川、根之谷川、三篠川の合流地点であり出雲往還および石見往還の分岐点として栄えていました。
平安時代には可部、中野、四日市、水落、大毛寺、今井田柳瀬、勝木などの地域が可部荘で、南原川と根之谷川の間が三入荘、三篠川の中流域に三田郷、戸坂あたりが田門荘があり、祇園近辺に佐東倉敷が置かれていました。太田川下流部の流路は江戸時代初期に福島正則が流路を東に移すまでは古河(佐東川)が本流で、下流部では 左岸(東側)は現在よりかなり広かったのです。当時はまだ太田川デルタが形成されておらず海田に開田荘があり国府が置かれました。 この時期には平安海進(8世紀から12世紀)があり、可部付近の河川水位と海水位の差は現在より小さかったのです。
平安時代後半(1100年頃)には、湾頭は長束付近 で牛田村、長束、三篠が河口を囲んでおり、山陽道は戸坂村で太田川を渡河していました。 1371年(応安4年)に当地を通った今川了俊は紀行文『道ゆきぶり』の中で「かひた」から「佐西の浦」(現廿日市市あたり)にかけては「しほひ (潮干)の浜」であったと記述しています。
室町時代中期(1400年頃)にデルタが形成され始め、戦国時代(1500年頃)には現在の平和大通りあたりです(長束から約4km)までに広がっ た。この急速な土砂堆積は当時太田川中流域で盛んであったたたら製鉄の為の砂鉄採取で行なわれました鉄穴(かんな) 流し の影響が考えられています。室町時代に武田山 に佐東銀山城を築いた安芸武田氏の基盤は未開発の太田川デルタ以北の長束より上流で、下流域の当時の中洲(川内・中筋・東野・東原一帯)に本拠を持つ土豪である川内衆(かわのうちしゅう)と府中を本拠とした安芸白井氏の水軍を擁していました。これら両水軍は武田氏滅亡後は毛利氏に仕えました。川内衆は毛利氏の指示によりデルタの干拓に携わりました。
安土桃山時代から江戸時代まで
謀神と称される戦国時代最高の知将の一人、毛利元就
正保年間に書かれた『安芸国広島城所絵図』。
安土桃山時代の開府以降、山陽道沿線の行政の中心地として、広島市は発展しました。
毛利氏による 広島城築城開始後は福島氏や淺野氏によりデルタの開発は継続されました。広島デルタの開発は1589年に毛利輝元が開始し、1601年に福島正則が入城しましたが、城内の建物やその周辺の補修や普請は継続し福島氏改易の原因となる1617年の普請まで城下の整備が継続されました。1619年に 浅野氏の入城後はほぼ洪水や火災などの補修に留まっているので、少なくとも1619年には城内の工事は完了していたと思われます。毛利氏により10年、福島氏により約20年が城およびデルタ開発に費やされ、干拓事業などにより広島市道霞庚午線(長束から約6km)のあたりまでデルタが拡大しました。デルタ形成に寄与した「鉄穴流し」ではありますが、治水の為に1628年(寛永5年)に禁止されました。江戸時代には、それまで猿猴川と京橋川の河口の島であった比治山や黄金山一帯が埋め立てられました。
(特徴:地方王国たる広島藩の首府)
毛利元就が中国地方一円の戦国大名となった時、小盆地である吉田(郡山城)は手狭で、交通の便も悪かったのです。そこで、山陽道(西国街道)が通り、太田川や瀬戸内海の水運を利用できる、太田川下流デルタの寒村・五箇庄に注目しました。元就の死後、毛利輝元によってその着想を現実化し、広島の開発が始まったのです。 1589年(天正17年):毛利輝元が、五箇庄の箱島(現在の白島)を中心とした干拓と、広島城の築城とを命じります。 1591年(天正19年):毛利輝元が、未完成ながらも広島城に入府し、地名を「広島」と命名します。 1599年(慶長4年):広島城の完成。 1600年(慶長5年):関ヶ原の戦いで敗北し、長門国・萩に移封された毛利氏の替わりに福島正則が城主となります。 山陽道が、福島正則によって城下町を通るように南寄りに付け替えられます。また、同時期に出雲街道や石見街道も整備されています。干拓により新開地も増え続け、江波や草津が港として整備されています。 1619年(元和5年):広島城石垣の無届け改修を理由として福島正則が改易となり、浅野長晟が城主となります。以降、浅野氏の広島藩が明治維新まで続きます。
江戸時代を通して広島の人口は拡大し続け、幕末には武家・町人併せて7万人あまりの規模に達していたと言われます。これは日本三都(江戸・大坂・京)および名古屋・金沢に次ぐ水準で、この当時から日本屈指の都市となっていました。
明治時代から第二次世界大戦勃発まで
1878年(明治11年)郡区町村編制法後、廣島市として想定された範囲の地図。
(特徴:中央集権国家での地方統治の拠点・軍事都市) 明治に入り軍港の整備や、産業誘致の為の埋め立てでデルタはさらに拡大していったのです。現在の空港通り最南端は長束より約9kmの距離です。
1871年(明治4年)
8月29日:廃藩置県により、旧広島藩領は全域「廣島縣」となります。 10月12日:「鎮西鎮台第一文営」が広島城に設置されています。徴兵制が始まっていないので旧藩兵からなる部隊でありました。
1873年(明治6年)1月9日:「第五軍管広島鎮台」が第一文営跡に設置されています。 1884年(明治17年)9月:千田貞暁県令(知事)により広島県営として宇品港の建設に着工。 1888年(明治21年)5月14日:第五軍管広島鎮台が第五師団司令部に昇格します。 1889年(明治22年)
4月1日:開府300周年。市制施行により広島市となり、広島県の県庁所在地とされました。 11月:宇品築港及び干拓工事の終了。当初の計画では氏族殖産補助金(旧藩主浅野氏)、氏族殖産金(国庫)と埋め立てによりできる新開地を担保としました。災害と計画変更により、更に二回に渡り国庫の補助を受けて私財も投じたため、千田県令は工事の完成を見ず新潟県に左遷されてしまいます。漁民に抵抗を受け、県民に負担をかけ、当時の広島には不釣合いな大規模港湾であり県令の功名心による土木工事であるとの批判も受けました。しかし、日清戦争において臨時の首都となった要因は、前線に近い点だけでなく、鉄道が開通していて、近代港湾を持ち、物資の生産・集積・貯蔵に必要な十分な土地を持つという理由で、宇品港と宇品干拓と共に、近代における広島の発展の原動力となった千田県令は、後に再評価されて勲三等旭日章を受け、男爵に叙せられ、千田廟公園(千田神社)が建てられました。
1893年(明治26年)5月:広島電燈株式会社設立。
楊斎延一『広島県御安着之図』
1894年(明治27年)
6月10日:山陽鉄道(現山陽本線)が広島まで開通。 8月4日:陸軍省の山陽鉄道への依頼により、広島駅から宇品港への宇品線の建設着工、2週間の突貫工事により同月20日完成。 9月15日:日清戦争に伴い、大本営や帝国議会が臨時に広島に移ります。以来、広島は軍都として発展します。(→首都機能移転) 10月:市初の発電所(火力、30キロワット)が大手町に建設され、市内に電灯がともります。
1896年(明治29年)5月19日市章を制定します。 1899年(明治31年)1月1日:広島市内で上水道の給水開始。 1903年(明治36年)12月27日:海田市駅から呉軍港を結ぶ呉線、官設により開通。 1905年(明治38年)2月:府中煙草製造所(元JT府中工場、及び同廣島分工場(元JT広島工場)が煙草製造開始。
1930年頃(昭和初頭)の廣島市地図。
1945年米軍作成の広島市地図。赤い斜線(濃い赤)の部分が原爆による全壊地域、赤い点(薄い赤)の部分が半壊地域です。地図の升目は1000ヤード(914.4メートル)です。一部1930年代の情報で書かれています。
1909年(明治42年)
10月:広島瓦斯株式会社創立。 12月19日:大日本軌道広島支社が横川-祇園(下祇園駅と古市橋駅の間)(現可部線)を開業。
1910年(明治43年)10月1日:市内にガス供給開始。 1911年(明治44年):広島城の外堀が埋められます。 1912年(明治45年/大正元年)
広島市歌(初代)を制定 7月8日亀山発電所(水力、2100キロワット)が送電開始。 西堂川(西塔川)(現在の鯉城通り・一部千田通り)が埋め立てられます。これが御幸橋方面への市内電車通りとなります。 11月:広島電気軌道(現広島電鉄)による市内電車の運転始まる、広島駅-紙屋町-御幸橋、八丁堀-白島など4路線。
1915年(大正4年)
4月28日:芸備鉄道が東廣島(現在の東広島駅とは別)-志和地間を(現芸備線)開業。 6月1日:芸備鉄道志和地-三次(現在の西三次)間が開業。
1920年(大正9年)7月15日:芸備鉄道広島-東広島(現在の東広島駅とは別)間が開業。国鉄廣島駅へ乗り入れ。 1922年(大正11年)8月22日:広島電気軌道宮島線(己斐-草津)が開業。 1925年(大正14年)7月15日:宮島線廿日市-地御前間が開業。 1926年(大正15年)7月15日:宮島線地御前-新宮島(後に廃止)間が開業。 1929年(昭和4年):昭和産業博覧会開催。4月18日、博覧会開催を記念して中国新聞社より広島市歌(2代目)を市に寄贈。 1931年(昭和6年)2月1日:宮島線新宮島-電車宮島(現在の広電宮島口)間が開業し、宮島線全通。 1932年(昭和7年):太田川の山手川と福島川の改修工事(太田川放水路)が帝国議会で決定。工事は第二次世界大戦で一時中断。
第二次世界大戦中
原爆投下前。
投下後。
広島市中央部
相生橋。画面右上の矩形は広島城
(特徴:中央集権国家での地方統治の拠点・戦時体制下の軍事都市)
1944年(昭和19年)11月18日:広島市で第一次建物疎開が実施されています。原爆投下まで計6回実施されています。 1945年(昭和20年)
2月:造幣局廣島支局の仮工場が完成。貨幣の製造を開始。 4月3日:広島市で学童疎開が始まります。 6月: 廣島文理科大学内に中国地方総監府が設置されています。 8月6日:アメリカ軍により世界初の核攻撃。原子爆弾が市中心部に投下されました。
第二次世界大戦終結から現在まで
広島に行幸した昭和天皇を歓迎する市民(1947年)
(特徴:中央集権国家での地方統治の拠点・平和記念都市としての都市整備・工業都市)
1945年(昭和20年)9月17日:枕崎台風により被害を受けます。広島県内で死者・行方不明者2012人。 1949年(昭和24年):
市制60周年、開府360周年。 8月6日:特別法である広島平和記念都市建設法が国会で可決され、住民投票を経て公布されています。 12月15日:プロ野球セントラル・リーグ広島カープが創設されています。
1955年(昭和30年):平田屋川(竹屋川)(現在の並木通り)が埋め立てられます。 1957年(昭和32年)7月22日:広島カープの本拠地となる広島市民球場 (初代)完成。
国 | 日本 |
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地方 | 中国地方、山陽地方 中国・四国地方 |
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都道府県 | 広島県 |
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団体コード | 34100-2 |
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面積 | 906.53km? 推計人口、2016年2月1日) |
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人口密度 | 1,310人/km? |
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隣接自治体 | 坂町、呉市、東広島市、 安芸高田市、廿日市市、 安芸郡熊野町、海田町、 府中町、 山県郡北広島町、安芸太田町 江田島市 |
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市の木 | クスノキ |
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市の花 | キョウチクトウ |
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市の歌 | 広島市歌(1965年制定) |
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広島市役所 |
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所在地 | 〒730-8586 北緯34度23分6.9秒東経132度27分19.1秒座標: 北緯34度23分6.9秒 東経132度27分19.1秒
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