前橋市 市町村合併旧5市 昭和の大合併(1954年(昭和29年))前から市制施行していた前橋市、高崎市、桐生市、伊勢崎市、太田市の総称。いずれも平野部に位置する都市です。 人口は高崎市の約37万人を筆頭に、前橋市約34万人、太田市約22万人、伊勢崎市約21万人、桐生市約12万人と続きます。前橋市・高崎市は中核市、伊勢崎市・太田市は特例市に指定されています。 上毛かるたの役札「五市札」(お/か/め/き/け)になっていて、団体戦の場合「五市札」を揃えると、20点が加算されています。 「お」 - 太田市 - 「太田金山子育呑龍(こそだてどんりゅう)」 「か」 - 高崎市 - 「関東と信越つなぐ高崎市」 「め」 - 伊勢崎市 - 「銘仙織出す伊勢崎市」 「き」 - 桐生市 - 「桐生は日本の機どころ」 「け」 - 前橋市 - 「県都前橋生糸の市」 全日本実業団対抗駅伝大会では、中継所のある上記5市のほか、佐波郡玉村町、みどり市を通過します。 前橋市(群馬県庁、公田中継所) 高崎市(高崎中継所) 佐波郡玉村町 伊勢崎市(伊勢崎中継所、赤堀中継所) 太田市(太田中継所)※尾島中継所は廃止されましたが、通過はします。 桐生市(桐生中継所) みどり市(笠懸地区) 新5市 1954年(昭和29年)4月1日 昭和の大合併により一斉に市制施行した沼田市、館林市、渋川市、藤岡市、富岡市の総称。 県内の廃止した町村 群馬県の廃止市町村一覧を参照のこと 歴史 先史 太田天神山古墳 旧石器時代 - 1979年(昭和54年)に国の史跡に指定された岩宿遺跡を始め旧石器時代の遺跡が多いです。現在では、150以上の遺跡が発見されています。そのなかの一つ、2千数百年前の下触牛伏(しもふれうしぶせ)遺跡(伊勢崎市)は大規模な集落で、出土した石器・石材は2000点余りに上ったのです。武井遺跡(桐生市新里町武井)からは10万点余りの槍先尖頭器を中心とする石器やこぶし大の石が大量に発見されています。これらの石器の石材は近くの渡良瀬川や栃木・長野県のものがみられ、この時代には既に人や物の交流・交易が行われていたことが分かります。また食料としては、ナウマンゾウ・オオツノジカなどの大型哺乳動物、シカ・イノシシなどの動物、それにウド・ゼンマイ・ヤマゴボウ・ユリ根・クルミなどでありました。 上毛野国(かみつけぬのくに)は古代東国の一大中心地で、4世紀前半から前方後円墳が出現しました。前橋天神山古墳、朝子塚古墳(太田市)、浅間山古墳(高崎市)、太田天神山古墳など東日本最大規模の古墳が築かれました。また、太田市飯塚町にて埴輪挂甲(けいこう)の武人が出土し、国宝に指定されました。6世紀の中頃に榛名山が大爆発を起こしました。その時の爆発で軽石の下敷きになった村がそっくり姿を現しました。黒井峯遺跡(子持村)です。そこからは大小の竪穴式住居址、倉庫や納屋、家畜小屋、水田や畑が発掘されています。これまで不明であった古墳時代の集落構造の資料を提供することとなりました。 古代 赤城山山頂にある赤城神社 律令制の下では東山道上野国で、国司が国を治める国府の所在地は現在の前橋市元総社町付近であったと推定されていますが、その遺跡は確認されていません。周辺に国分寺・国分尼寺の跡があります10世紀の郡は、碓氷(うすい)・片岡・甘楽(かんら)・多胡・緑野(みとの)・那波・群馬(くるま)・吾妻(あがつま)・利根・勢多・佐位・新田・山田(やまた)・邑楽(おうら)の14、郷は102(『和名類聚抄』)。711年(和銅4年)、多胡郡は片岡・緑野・甘楽の3郡から300戸を割いて設けられました。 延喜式神名帳に記載される名神大社としては、後に一ノ宮となった貫前神社(富岡市)や赤城神社(前橋市に論社3社)、伊香保神社(渋川市)があり、高崎市の辛科神社は渡来系の神社として知られています。この辺りには古くから渡来人が多かったようで、8世紀始めに甘楽、緑野、片岡各郡から6郷を割き、多胡郡が成立しました。多胡郡建郡を記念する多胡碑など上野三碑が古代の金石文として知られます。 中世 荘園や御厨、国衙領が成立し、それを基盤として中小武士団が勃興しました。県東部の邑楽・新田・佐位郡と北部の利根・吾妻、西部の碓氷・多胡郡は郡域が荘園化し、一方で群馬郡・甘楽郡はほぼ全域が国衙領として渋川郷(保)・桃井郷・白井保・長野郷・和田郷・岡本郷などが成立しました。他は混在しています。このため武士団の出自に地域傾向があります まず県北部から東部にかけては秀郷流藤原氏(佐位・那波・林・薗田・大胡・山上氏)が入り、続いて東部の新田荘に新田氏一族(新田本家・里見 ・山名・得河・世良田・岩松)が入り拡大しました。県南部は秩父党系(小幡・飽間・小林氏)が武蔵から入ったのです。多胡郡は荘園として源義賢が開発し、のちに多胡氏が拠ったのです。一方国衙領がほとんどの群馬郡・甘楽郡では、在庁宮人系と推測される諸氏(渋川・桃井・長野・和田・岡本氏など)が勃興しました。 これらの武士団は、新田一族を除き中世の騒乱のなかで力を失っていったのです。まず治承・寿永の乱で、源義仲が多胡郡から県西部に影響力を持ち、東部では新田荘の新田義重が自立しました。隣接する足利には秀郷流藤原氏の惣領・藤原姓足利氏が平家側にありました。一方秀郷流藤原氏の一族・新田氏の分家(里見・山名)や多くの武士は源頼朝に従ったのです。その後、最終的に源頼朝の勝利に終わった結果、義仲についた佐位氏・那波氏・桃井氏、平家についた藤原姓足利氏が没落、新田義重も地位が低下しました。頼朝についた武士団は鎌倉御家人となりました。鎌倉期には和田合戦で渋川氏が没落しました。在地領主が没落したのちには、新たに領主が入り、同じ名の氏族を名乗ったのです。藤姓那波氏旧領には大江氏系の那波氏が、渋川氏・桃井氏は源姓足利氏の一族が入ったのです。 鎌倉末期になると、新田義貞が足利尊氏とともに後醍醐天皇の鎌倉幕府討幕運動に参加し、建武の新政にも参画しました。ただし惣領家が力を失った新田氏は一族としてまとまらず、里見・山名氏は足利尊氏についています。また幕府側についた武士団(白井氏・大胡氏・山上氏)もありました。新田義貞戦死後は南朝に付いた新田本家・世良田氏が没落し、里見・山名氏はその本拠地を県外へ移し、足利について新たに新田惣領を継承した岩松氏が新田荘を中心に勢力を維持しました。一方、鎌倉幕府滅亡時に白井氏・観応の擾乱で多胡氏が没落、山上氏は幕府側から擾乱時に尊氏方に移るなど、内乱で没落したり疲弊したりして独自勢力をもてなかったのです。一族が多い秀郷流藤原氏は惣領家(藤原姓足利氏)が滅亡してまとまれず、結果、室町時代において岩松氏以外の上州武士は国人一揆たる白旗一揆に参加していました。観応の擾乱後、岩松氏を除き上州白旗一揆に参加した上州武士は、守護として入った山内上杉家の被官化しました。ただし「衆」として被官化されたのちもその形式を残していて、解体は戦国大名の登場を待つことになります。また山内上杉家家臣の長尾氏が土着し、白井長尾家と総社長尾家が成立しました。 享徳の乱で関東が戦国時代に入ると、県域南部が武蔵国五十子(埼玉県本庄市)を本拠に鎌倉公方(堀越公方)を補佐する山内上杉家の影響力が及び、北部は越後国守護代長尾氏の勢力下、新田郡に自立的な岩松氏(のち下克上され横瀬氏)がある形で推移しました。戦国期の関東情勢は鎌倉公方が分裂し、伊豆の堀越公方に属する両上杉氏らと、下総国古河に本拠を置く古河公方が対立し複雑に推移し、山内上杉家は北関東の有力戦国大名として成長しますが、相模国に台頭した新興勢力である後北条氏と対立し、後北条氏は甲斐国の武田氏、駿河国の今川氏と三国同盟を結び1546年(天文15年)の河越夜戦において山内上杉家を駆逐し、上野にも後北条氏の勢力が及び、こうした情勢のなか上野の国衆は上杉・北条両氏に属し離合集散を繰り返しました。ただし、信濃国佐久郡に近い一部の国衆は同地に進出した武田氏に属しています。 越後国では守護代長尾氏による統一が進んでいましたが山内上杉家は長尾氏を頼り、長尾景虎(上杉謙信)は山内上杉家の家督と関東管領職を継承し、北信濃における武田氏との抗争(川中島の戦い)と平行して上野や北関東地域において後北条氏と抗争しました。 上杉・武田両氏の川中島の戦いは1561年(永禄4年)の第四次合戦を機に収束しますが、武田氏は上杉氏の圧迫を受けていた自己傘下の小幡氏の旧領復帰を口実に上野進出の機会をうかがっていて、上野における後北条氏の反攻と呼応して西上野侵攻を行って上杉傘下にあった有力国衆の長野氏を滅ぼすなど、上野においては上杉氏と武田・後北条氏との抗争が展開されました。 1568年(永禄11年)には甲相同盟が破綻して武田・後北条氏が対立関係となり、翌年(永禄12年)には上杉氏と後北条氏との間で越相同盟が締結されています。さらに甲相同盟は1571年(元亀2年)に回復され、1579年(天正7年)には越後における御館の乱と関係して武田・上杉間で甲越同盟が締結され武田・後北条間は敵対関係となり、こうした複雑な外交情勢のなか上野は三者の接する係争地となりました。そして豊臣秀吉による小田原征伐で後北条氏が没落すると、徳川家康の配下の武将が入ることになります。 このような山内上杉氏・後北条氏・武田氏・長尾上杉氏が争う中で、鎌倉頃からの土着武士は完全に没落し、戦国大名の家臣として新たに入った武士が近世は上州を領地としていったのです。 近世 江戸時代初期には東国の北の守りとして主に譜代大名が上州に配置され、前橋藩、高崎藩、沼田藩、館林藩、安中藩、小幡藩、伊勢崎藩、吉井藩、七日市藩などがあり、交代寄合旗本では岩松(新田)氏の岩松陣屋がありました。また岩鼻には上野国内の幕府領を支配する代官の陣屋(岩鼻陣屋)が置かれました。 江戸時代から昭和初期にかけては、桐生織を中心に、当時の基幹産業である絹織物生産の中心地となりました。上州の女性が家庭社会において従属的な位置に甘んじることなく元気溌剌としている大きな理由は、養蚕織物業によって女性であっても多くの収入を得られたからです。 これは加齢年齢にも影響を受けない練達技巧です。いわゆる「かかあ天下(でんか)と空っ風」です。「かかあ天下」は、「女性(妻)に頭が上がらない男性(夫)」とか「妻の尻に敷かれている夫」と取られがちですが、そうではなく、上州の男が自分の妻を感謝・尊敬し、自慢する意味で「ウチの母(かかあ)は天下一」という意味を持っています。 養蚕業は原始的ながら複雑な工程を経るため、群馬県(埼玉県北部上武地域を含む)では養蚕業に由来する社会行事が多く残っています。民俗学的に優れた材料の宝庫ともいえ、評価が高いです。往々にして写真美術の題材になるなど、養蚕業の深奥はいまだに尽きるところがないです。養蚕製糸業は当然製造工学的な技術発展をうながしていて、これを背景に大正時代には日本最大の飛行機会社となった中島飛行機が設立されました。 近現代 第二次世界大戦中には疎開地として多くの民衆・企業を受け入れました。軍需工場が集中する高崎市街地、前橋市街地、伊勢崎市街地、桐生市街地、中島飛行機太田製作所、小泉製作所はそれ故に米軍による市街地空襲の標的となり、その内、高崎市、前橋市、伊勢崎市、太田町(現:太田市)の一部、などの市街地は甚大な被害を受けました(桐生市は確認されているのが戦闘機による機銃掃射のみでほとんど被害なし)。戦後はこれまでの平野部の農業、工業製造業も復活しましたが、娯楽民生に技術を転用した好例として遊技機(パチンコ機パチスロ機)の製造販売が盛んです。製造業の系譜は途切れることなく、また女性の社会参加も同様です。県民の一世帯当たりの自家乗用車保有台数は全国でも首位を争うほどです。一家に親世代子世代用の各乗用車に加え一定の労務に従事する女性のための乗用車を用意しているのが各統計に見られる多くの姿です。 政治的にも、経済的にも首都圏にありながら保守土着の性質がいまだに残り、自由民主党の勢力が強く「保守王国」と呼ばれます。また、有力議員が当選回数を重ねて首班指名を受けるという現代保守政治の手続に忠実な意識です。戦後には福田赳夫(高崎市)、中曽根康弘(高崎市)、小渕恵三(中之条町)、福田康夫(高崎市)と4人の総理大臣を輩出しています。しかし、2009年(平成21年)の第45回衆議院議員総選挙では、自民党への逆風から5議席中3議席を民主党に奪われ、政権交代の象徴的選挙区として全国から注目を浴びた。 主要年表 古代 639年(舒明天皇9年) - 将軍・上毛野君形名が蝦夷反乱を討ち平げります。 708年(和銅元年) - 多胡郡新設。 766年(天平神護2年) - 上野国内の新羅人193人に吉井連の姓を賜う。 811年(弘仁2年) - 上野国を中国から大国に昇格させます。 826年(天長3年) - 上野国を親王任国とします(上野太守は葛井親王)。 939年(天慶2年) - 平将門、上野国府を襲う。 1108年(天仁元年)7月21日 - 浅間山噴火。 中世 1333年(正慶2年) - 新田義貞、上野国で挙兵、鎌倉攻略。 1336年(建武3年) - 足利軍、新田軍を破り、上野国制圧。 1438年(永享10年) - 関東管領上杉憲実、鎌倉公方足利持氏と対立し、平井城に退去。 1560年(永禄3年) - 長尾景虎、関東管領上杉憲政の要請により上野国へ出兵。 1590年(天正18年) - 徳川家康、関東入部。徳川家臣、上野入国(江戸の北の守りとして譜代大名が多い)。 近世 1601年(慶長6年) - 譜代大名酒井氏、前橋藩主となります。 1603年(慶長8年) - 浅間山大噴火 1614年(慶長19年) - 徳川家康、大光院を建立します。 1616年(元和2年) - 大渡、真正、福島、五料に関所を設置。 1620年(元和6年) - イエズス会宣教師フェルナンデス、沼田城下で伝道。 1631年(寛永8年) - 白井、大戸、猿ヶ京に関所を設置。 1649年(慶安2年) - 厩橋を前橋と改名します。 1661年(寛文元年) - 徳川綱吉、館林藩主となります。 1669年(寛文9年) - 岡上景能、岡登用水を開きます。 1680年(延宝8年) - 徳川綱吉、幕府第5代将軍(征夷大将軍)となります。 1767年(明和4年) - 前橋城崩壊、前橋藩は川越に移城。 1783年(天明3年) - 浅間山大噴火。 1850年(嘉永3年) - 国定忠治処刑。 1866年(慶応2年) - 上州世直し一揆。 1867年(慶応3年) - 前橋藩主 松平直克、川越城から再築された前橋城へ帰城。 1868年(慶応4年) - 館林藩、会津戦争に参戦します。 明治 明治時代の群馬県庁舎 1871年(明治4年) 7月14日 - 廃藩置県、9県並立(小幡県、伊勢崎県、前橋県、岩鼻県、沼田県、安中県、高崎県、七日市県、館林県)。 10月 - 11月 - 第一次府県統合(3府72県1使) 10月28日 - 第一次群馬県成立(上記の9県の内、館林県を除く8県が統合される)。県庁が高崎に置かれます。 11月14日 - 第一次栃木県成立(館林県、壬生県、吹上県、佐野県、足利県、日光県が統合される)。県庁が栃木に置かれます。 1872年(明治5年) 6月15日 - 群馬県庁が高崎から前橋に移ります。 9月15日 - 官営富岡製糸場が設置されています。 1873年(明治6年)6月15日 - 入間県と合併し熊谷県となります。県庁は熊谷に置かれます。 1876年(明治9年) 4月 - 8月 - 第二次府県統合(3府35県1使1藩) 8月21日 - 第二次群馬県成立(熊谷県を廃止し、第一次群馬県域と栃木県の山田郡、新田郡、邑楽郡域を統合します。現在の群馬県の形に近くなる)。県庁が再び高崎に置かれます。 1881年(明治14年) - 太政官布告で群馬県庁の所在地を高崎から前橋に改定。 1884年(明治17年) 5月1日 - 日本鉄道上野駅 - 高崎駅間全通(現:高崎線)。 5月24日 - 高崎に歩兵第十五聯隊設置。 8月20日 - 日本鉄道高崎駅 - 前橋駅間開通。 1885年(明治18年)10月15日 - 高崎駅 - 横川駅間鉄道開通(現:信越本線)。 1888年(明治21年)11月15日 - 両毛鉄道足利駅 - 桐生駅間開業。 1889年(明治22年) 4月1日 - 町村制施行(35町171村)。町制施行した35町は以下の通りです。 東群馬郡:前橋町 西群馬郡:高崎町、倉賀野町、金古町、 総社町、渋川町、伊香保町 緑野郡:新町、藤岡町、鬼石町 多胡郡:吉井町 北甘楽郡:福島町、富岡町、一ノ宮町、妙義町、下仁田町 碓氷郡:板鼻町、安中町、原市町、松井田町、坂本町 吾妻郡:中之条町、原町、長野原町 利根郡:沼田町 那波郡:玉村町 佐位郡:伊勢崎町、境町 山田郡:桐生町、大間々町 新田郡:尾島町、木崎町、太田町、藪塚本町 邑楽郡:館林町 11月20日 - 両毛鉄道桐生駅 - 前橋駅間開業。これにより小山駅 - 前橋駅間全通。 12月26日 - 日本鉄道前橋駅 - 両毛鉄道前橋駅間開通。日本鉄道の前橋駅廃止。 1892年(明治25年)4月1日 - 東群馬郡前橋町が県内で初めて市制施行し、前橋市誕生。人口は約3万2,000人。関東では水戸市・東京市・横浜市に次いで4番目の市となります。 1893年(明治26年)4月1日 - 横川駅 - 軽井沢駅間鉄道開通。 1896年(明治29年) 4月1日 - 郡統合(11郡) 東群馬郡と南勢多郡が統合され勢多郡成立。 片岡郡と西群馬郡が統合され群馬郡成立。 緑野郡、南甘楽郡、多胡郡が統合され多野郡成立。 北勢多郡と利根郡が統合され利根郡成立。 佐位郡と那波郡が統合され佐波郡成立。 県内に赤痢流行、2,000人余死亡。 1897年(明治30年) 5月10日 - 上野鉄道(現:上信電鉄)高崎駅 - 福島駅(現:上州福島駅)間が開業。 9月10日 - 上野鉄道 福島駅 - 下仁田駅間開業。これにより高崎駅 - 下仁田駅間が全線開通。 1900年(明治33年) 4月1日 - 群馬郡高崎町が市制施行し、高崎市誕生。人口は約3万2,000人。西毛地区初、県内2番目、関東では6番目の市となります。 足尾銅山鉱毒被害、田中正造反公害運動。 1903年4月23日 - 東武伊勢崎線加須駅 - 川俣駅間開通。当時の川俣駅は利根川右岸の埼玉県側にありました。 1907年(明治40年)8月27日 - 東武伊勢崎線川俣駅 - 足利町駅(現:足利市駅)間開業。川俣駅移転。館林町に館林駅開業。 1909年(明治42年)2月17日 - 東武伊勢崎線足利町駅 - 太田駅間開業。 1910年(明治43年) 3月27日 - 東武伊勢崎線太田駅 - 新伊勢崎駅間開業。 7月13日 - 東武伊勢崎線新伊勢崎駅 - 伊勢崎駅間開業。これにより浅草駅(現:とうきょうスカイツリー駅) - 伊勢崎駅間全通。 1911年(明治44年)4月15日 - 足尾鉄道下新田連絡所 - 大間々町駅(現:大間々駅)間開業(桐生駅 - 下新田連絡所間は、官設鉄道両毛線を借用)。 大正 1912年(大正元年) 9月15日 - 足尾鉄道(現:わたらせ渓谷鐵道)大間々町駅(現:大間々駅) - 神土駅(現:神戸駅)間開業。 11月11日 - 足尾鉄道神土駅 - 沢入駅間開業。 12月31日 - 足尾鉄道沢入駅 - 足尾駅間開業。 1913年(大正2年) 県人口100万人突破 3月19日 - 東武鉄道桐生線太田駅 - 相老駅間が開業。 10月13日 - 足尾鉄道が足尾線と改称します。 1914年(大正3年) 8月2日 - 東武鉄道佐野線館林駅 - 佐野町駅(現:佐野市駅)間が開業。 8月15日 - 足尾線足尾駅 - 足尾本山駅間開業(貨物線)。これにより足尾線全通。 11月1日 - 足尾線間藤駅開業。足尾駅 - 間藤駅間旅客営業開始。 1915年(大正4年) 桐生高等染織学校設置。 1917年(大正6年) 中島知久平、飛行機研究所設立 3月12日 - 中原鉄道(現:東武鉄道小泉線)館林駅 - 小泉町駅間開業。 1918年(大正7年) スペイン風邪流行、死者766人。 桐生倶楽部発足。 1919年(大正8年) - 桐生倶楽部会館が完成。 1920年(大正9年) - 第一回国勢調査。県内主要都市の人口は以下の通りです。 前橋市:6万2,325人、高崎市:3万6,792人、桐生町:3万7,674人。 1921年(大正10年) 3月1日 - 山田郡桐生町が市制施行し桐生市誕生。人口は約3万8,000人。東毛地区初、県内3番目、関東では11番目の市となります。 7月1日 - 上越南線(じょうえつなんせん 現:上越線)新前橋駅 - 渋川駅間開業。 1922年(大正11年)3月4日 - 中原鉄道が上州鉄道と改称します。 1924年(大正13年)3月31日 - 上越南線渋川駅 - 沼田駅間開業。 1926年(大正15年)11月20日 - 上越南線沼田駅 - 後閑駅間開業。 昭和 1927年(昭和2年)4月1日 - 高崎市に群馬郡塚沢村、片岡村が編入されています。 1928年(昭和3年) 10月30日 - 上越南線(現:上越線)後閑駅 - 水上駅間開業。 11月10日 - 上毛電気鉄道中央前橋駅 - 西桐生駅間開通。 1931年(昭和6年) - 中島飛行機株式会社設立 1932年(昭和7年)3月18日 - 東武桐生線相老駅 - 新大間々駅(現:赤城駅)間開業。 1933年(昭和8年)4月1日 - 桐生市に山田郡境野村が編入されています。人口は約7万5,000人。 1934年(昭和9年) 11月11日~14日 - 栃木・群馬・埼玉3県にて陸軍特別大演習が行われます。 11月16日 - 昭和天皇が桐生市に行幸。昭和天皇誤導事件が起きます。 1937年(昭和12年) 1月10日 - 東武鉄道が上州鉄道(現:小泉線)を買収。 4月1日 - 桐生市に山田郡広沢村が編入されています。人口は約8万5,000人。 1939年(昭和14年)10月1日 - 高崎市に群馬郡佐野村が編入されています。 1940年(昭和15年)9月13日 - 佐波郡伊勢崎町、殖蓮村、茂呂村が新設合併、市制施行し、伊勢崎市誕生。人口は約4万人。県内4番目の市となります。 1941年(昭和16年)6月1日 - 東武鉄道小泉線太田駅 - 小泉町駅間が開業。 1943年(昭和18年) 4月1日 - 群馬師範学校設置。 11月1日 - 新田郡太田町に新田郡鳥之郷村が編入されています。 1944年4月1日 - 群馬青年師範学校設置。 1945年(昭和20年) 2月10日、16日 - 太田町(現:太田市)空襲。 2月25日 - 太田町、小泉町(現:大泉町)空襲。 4月4日 - 小泉町空襲。 7月18日 - 桐生市空襲。 8月5日 - 前橋市・高崎市空襲(前橋・高崎空襲)。 8月14日 - 高崎市、伊勢崎市(伊勢崎空襲)、太田町空襲。 高崎市民オーケストラ(現在の群馬交響楽団)発足。 1946年(昭和21年) - 相沢忠洋、岩宿で旧石器を発見します。 1947年(昭和22年) - 第一回公選知事選挙 1948年(昭和23年) 2月10日 - 前橋医科大学設置。 5月3日 - 新田郡太田町が市制施行し、太田市誕生。人口は約4万9,000人。県内5番目の市となります。 1949年(昭和24年) 6月1日 - 新制群馬大学発足。 10月1日 - 群馬郡から北群馬郡が分立します。 1950年(昭和25年)4月1日 - 北甘楽郡が甘楽郡と改称します。 1951年(昭和26年) 4月1日 前橋市に勢多郡桂萱村三俣の一部が編入されています。人口は約10万人。 高崎市に群馬郡六郷村が編入されています。人口は約9万7,000人。 1953年(昭和28年)10月14日 - 群馬大橋開通。 1954年(昭和29年) 4月1日 前橋市に勢多郡上川淵村、下川淵村、芳賀村、桂萱村、群馬郡東村、元総社村、総社町が編入されています。人口は約15万2,000人。 利根郡沼田町、利南村、池田村、薄根村、川田村が新設合併、市制施行し、沼田市誕生。人口は約4万3,000人。 邑楽郡館林町、郷谷村、大島村、赤羽村、六郷村、三野谷村、多々良村、渡瀬村が新設合併、市制施行し、館林市誕生。 北群馬郡渋川町、金島村、古巻村、豊秋村が新設合併、市制施行し、渋川市誕生。人口は約3万9,000人。 多野郡藤岡町、神流村、小野村、美土里村、美九里村が新設合併、市制施行し、藤岡市誕生。人口は約4万2,000人。 甘楽郡富岡町に黒岩村、一ノ宮町、高瀬村、額部村、小野村が編入、市制施行し、富岡市誕生。人口は約3万8,000人。 9月1日 - 前橋市に勢多郡南橘村が編入されています。人口は約16万4,000人。 10月1日 多野郡鬼石町、三波川村、美原村が新設合併して鬼石町誕生(現:藤岡市)。 山田郡大間々町に山田郡福岡村、川内村高津戸の一部が編入されています。 桐生市に山田郡梅田村、相生村、川内村の大部分が編入されています。人口は約11万6,000人。 1955年(昭和30年) 1月15日 前橋市に群馬郡清里村、新高尾村(鳥羽)が編入されています。人口は約16万7,000人。 高崎市に碓氷郡豊岡村、八幡村、群馬郡中川村、新高尾村(残り)が編入されています。人口は約12万人。 8月1日高崎市に群馬郡長野村が編入されています。人口は約12万5,000人。 1956年(昭和31年)2月1日 - 吾妻郡原町が「吾妻町」と改称します。 1957年(昭和32年) 1月1日 - 邑楽郡中島村が「邑楽村」と改称します。 3月31日 - 邑楽郡小泉町、大川村が新設合併して大泉町誕生。人口は約1万9,000人。 1958年(昭和33年) 11月1日 碓氷郡安中町が市制施行し、安中市誕生。県内11番目の市となります。 利根郡久呂保村、糸之瀬村が新設合併し、昭和村誕生。 1959年(昭和34年) 1月1日 - 桐生市に栃木県足利郡菱村が編入されています。人口は約12万3,000人。 浅間山大噴火。 1960年(昭和35年) - ダイハツ前橋製作所設立 1962年(昭和37年) - 陸上自衛隊第12師団司令部、相馬が原に設置 1963年(昭和38年) 3月31日 - 高崎市に群馬郡倉賀野町が編入されています。 4月1日 - 太田市に新田郡宝泉村が編入されています。 12月1日 - 太田市に山田郡毛里田村が編入されています。 1965年(昭和40年)9月1日 - 高崎市に群馬郡群南村が編入されています。人口は約17万人。 1967年(昭和42年)5月1日 - 前橋市に勢多郡城南村が編入されています。人口は約22万人。 1968年(昭和43年) 4月1日 邑楽郡邑楽村が町制施行し邑楽町が誕生。 桐生市に栃木県安蘇郡田沼町飛駒の一部が編入されています。人口は約13万1,000人。 1971年(昭和46年) - 女性8人を誘拐殺人した大久保清事件起こる 1974年(昭和49年)10月17日 - 県立近代美術館開館。県立群馬の森開園。 1976年(昭和51年) - 福田赳夫、内閣総理大臣就任 1982年(昭和57年) 4月1日 - 邑楽郡千代田村が町制施行し千代田町誕生。 中曽根康弘、内閣総理大臣就任 11月15日 - 上越新幹線大宮駅~新潟駅間開業。群馬県初の新幹線路線となります。 1983年(昭和58年) 1月 - あかぎ国体冬季大会 9月 - あかぎ国体夏季大会 1985年(昭和60年) 8月12日 - 日本航空123便墜落事故(高天原山)。 10月28日 - 群馬県民の日制定。 1986年(昭和61年) 10月1日 - 佐波郡赤堀村が町制施行し赤堀町誕生。 平成 1990年(平成2年) - 4月1日 新田郡笠懸村が町制施行し笠懸町誕生。 1991年(平成3年) 4月1日 北群馬郡吉岡村が町制施行し吉岡町誕生。 小寺弘之知事初当選 1993年(平成5年) 3月27日 - 上信越自動車道、藤岡IC~佐久IC間開通。 7月1日 - 鬼押出し浅間園 浅間火山博物館、リニューアルオープン。 10月19日 - 県人口200万人突破。 1996年(平成8年) 7月1日 群馬郡倉淵村が「倉渕村」と改称します。 1998年(平成10年) 小渕恵三、内閣総理大臣就任。 10月1日 邑楽郡明和村が町制施行し明和町誕生。 1999年(平成11年) 県庁舎・県議会議事堂新築。 2000年(平成12年) 5月14日 - 小渕恵三、志半ばで急逝。 6月10日 - 尾島町(現・太田市)の化学工場で爆発事故が発生し、付近の住宅などが半壊。 2001年(平成13年) 1月6日 - 汚職事件で実刑判決を受け上告中の中島洋次郎元県選出衆議院議員、都内で自殺。 3月31日 - 北関東自動車道、高崎JCT-伊勢崎IC間開通。 4月1日 前橋市と高崎市が特例市に移行。 11月12日 - 伊勢崎市同居女性餓死事件が発覚。加害者を取り巻く地域と家庭が劣悪であることが話題となりました。 2003年(平成15年) 4月1日 多野郡万場町、中里村が新設合併し神流町誕生。人口は約3,000人。 2004年(平成16年) 9月1日 - 浅間山また噴火。 10月16日 - 上越線に高崎問屋町駅が開業。 12月5日 - 前橋市に勢多郡大胡町、宮城村、粕川村が編入されています。人口は約32万1,000人。 2005年(平成17年) ザスパ草津が日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟。 1月1日 - 伊勢崎市、佐波郡境町、赤堀町、東村が新設合併し、新伊勢崎市誕生。人口は約20万8,000人。 2月13日 - 沼田市に利根郡白沢村、利根村が編入されています。人口は約5万5,000人。 3月28日 - 太田市、新田郡新田町、尾島町、藪塚本町が新設合併して新太田市誕生。人口は約21万7,000人。 6月13日 - 桐生市に勢多郡新里村、黒保根村が編入されています。人口は約13万2,000人。 10月1日 - 利根郡月夜野町、水上町、新治村が新設合併してみなかみ町誕生。人口は約2万5,000人。 2006年(平成18年) 1月1日 - 藤岡市に多野郡鬼石町が編入されています。人口は約7万人。 1月23日 - 高崎市に群馬郡群馬町、箕郷町、倉渕村、多野郡新町が編入されています。人口は約32万2000人。 2月20日 - 渋川市、勢多郡北橘村、赤城村、北群馬郡子持村、小野上村、伊香保町が新設合併し、新渋川市誕生。人口は約8万7000人。 3月18日 - 安中市、碓氷郡松井田町が新設合併し、新安中市誕生。人口は約6万5000人。これにより、碓氷郡が消滅。 3月27日 - 富岡市、甘楽郡妙義町が新設合併し、新富岡市誕生。人口は約5万5000人。 勢多郡東村、山田郡大間々町、新田郡笠懸町が新設合併し、みどり市が群馬県12番目の市として誕生。人口は約5万2000人。これにより、山田郡と新田郡が消滅。 吾妻郡東村、吾妻町が新設合併し、東吾妻町誕生。人口は約1万7000人。 7月5日 - 六合村の赤岩地区(現在の中之条町六合赤岩)の63.0ヘクタールが重要伝統的建造物群保存地区として選定。 10月1日 - 高崎市に群馬郡榛名町が編入。人口は約34万1000人。これにより前橋市を抜き、県内最大の都市となります。これにより、群馬郡が消滅。 10月10日 - 群馬運輸支局は、自動車のナンバープレートについて、自動車の使用本拠地が高崎市と安中市に限り、県内初のご当地ナンバーとして「高崎ナンバー」を導入。それ以外の市町村は、県庁所在地の前橋市も含め、従来どおり「群馬ナンバー」のまま。 2007年(平成19年) 4月1日 - 伊勢崎市と太田市が特例市に移行。 7月22日執行の知事選挙で大沢正明が当選。 9月6日 - 台風9号による大雨のため、南牧村の県道・村道が崩壊し、孤立状態となりました。 9月26日 - 福田康夫が第91代内閣総理大臣に就任。 12月1日 - 県総人口が東に隣接する栃木県に抜かれ、関東地方で最も人口の少ない都道府県、全国では第20位となります。 2008年(平成20年) 3月1日 - 北関東自動車道の駒形ICと伊勢崎ICの間に波志江PAが開設しました。 3月8日 - 北関東自動車道の伊勢崎ICから太田桐生IC間が開通(間に太田藪塚ICがある)。 3月29日 - 花と緑のシンフォニーぐんま2008が開催。 2009年(平成21年) 4月1日 - 前橋市が中核市に移行。 5月5日 - 前橋市に勢多郡富士見村が編入。人口は約34万5000人。これにより、勢多郡が消滅。 6月1日 - 高崎市に多野郡吉井町が編入。人口は約37万4000人。 2010年(平成22年) 3月28日 - 吾妻郡中之条町に六合村が編入。人口は約1万8000人。 8月1日 - 県総人口が200万人を割ります。県総人口が200万人未満になるのは1994年4月1日以来。 ※各市町村の人口は合併発足当時のもの。 2011年(平成23年) 4月1日 - 高崎市が中核市に移行。 2012年(平成24年) 7月9日 - 桐生市の桐生新町地区(本町一・二丁目、桐生天満宮境内、計13.4ヘクタール)が重要伝統的建造物群保存地区として選定。 2013年(平成25年) 8月2日 - 国土交通省は自動車のナンバープレートについて、前橋市と北群馬郡吉岡町において県内2番目のご当地ナンバーとして「前橋ナンバー」の導入を決定。導入は2014年11月17日(2014年5月16日発表)。 2014年(平成26年) 6月25日 - 富岡製糸場と絹産業遺産群(富岡市、伊勢崎市、藤岡市、下仁田町)が世界遺産に登録。 2015年(平成27年) 4月24日 - かかあ天下 ―ぐんまの絹物語―(桐生市、甘楽町、中之条町、片品村)が日本遺産に認定。 人口 群馬県市町村人口増減率分布図(2005年度と2010年度国勢調査から算出) 増加 ??.5 - 9.99?% ??.0 - 7.49?% ??.5 - 4.99?% ??.0 - 2.49?% | 減少 ??.0 - 2.5?% ??.5 - 5.0?% ??.0 - 7.5?% ??.5 - 10.0?% ??.0?% 以上 |
| 群馬県(に相当する地域)の人口の推移 1970年 | 1,658,909人 | | 1975年 | 1,756,480人 | | 1980年 | 1,848,562人 | | 1985年 | 1,921,259人 | | 1990年 | 1,966,265人 | | 1995年 | 2,003,540人 | | 2000年 | 2,024,852人 | | 2005年 | 2,024,135人 | | 2010年 | 2,008,170人 | |
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