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浦和区 鍵 出張エリア
- さいたま市浦和区大原
- さいたま市浦和区上木崎
- さいたま市浦和区木崎
- さいたま市浦和区岸町
- さいたま市浦和区北浦和
- さいたま市浦和区皇山町
- さいたま市浦和区駒場
- さいたま市浦和区神明
- さいたま市浦和区瀬ケ崎
- さいたま市浦和区大東
- さいたま市浦和区高砂
- さいたま市浦和区常盤
- さいたま市浦和区仲町
- さいたま市浦和区針ケ谷
- さいたま市浦和区東岸町
- さいたま市浦和区東高砂町
- さいたま市浦和区東仲町
- さいたま市浦和区前地
- さいたま市浦和区大字三崎
- さいたま市浦和区元町
- さいたま市浦和区本太
- さいたま市浦和区領家
- 浦和駅
- 埼玉県さいたま市浦和区高砂1丁目
- 北浦和駅
- 埼玉県さいたま市浦和区北浦和4丁目
- 与野駅
- 埼玉県さいたま市浦和区上木崎1丁目
※離島やスタッフの欠員状況により、一部地域の対応ができない場合があります。対応地域についてはお気軽にお尋ね下さい。
浦和区 エリア情報
埼玉県立近代美術館
1982年に開館。モネ・シャガール・ピカソなどの海外の巨匠から浦和画家として有名な瑛九や寺内萬治郎、また日本の現代作家まで幅広い作品のコレクション・展示を行っている。館内には数々の名作椅子に座ることが出来る。椅子の美術館としても有名。現代的なデザインが特徴なこの美術館は建築家・黒川紀安章が設計したもの。
浦和区(うらわく)は、埼玉県さいたま市を構成する10区のうちの一つ。旧浦和市の中央部北側に相当し、旧市の中心市街地を含みます。埼玉県庁やさいたま市役所などの行政機関、浦和パルコや伊勢丹浦和店などの商業施設が集積する他、文教都市や高級住宅街としても知られます。
浦和区は、埼玉県さいたま市の南部に位置します。
さいたま市が政令指定都市に移行するに当たり、旧浦和市は4つの区に分割され、西部に桜区、中心市街地を含む中央部北側に浦和区、中央部南側に南区、東部に緑区が設置されました。中央部北側に位置する浦和区の区域は、おおむね旧浦和町と木崎地区に相当しますが、これに加えて六辻地区のうち神明の北側3分の2ほどが浦和区に含まれます。逆に、木崎地区のうち大原6丁目・7丁目は大宮区に含まれます。
地形
さいたま市浦和区周辺の地形
浦和区は、ほぼ全域が大宮台地(北足立台地)浦和大宮支台の上にあり、北端部のみが芝川低地にかかります。その他、区東部の大宮台地の縁に藤右衛門川などの中小河川が入り込んでおり、谷底平野が一部形成されています。
人口構成
浦和区の世帯数は6万6千世帯強、人口は15万人強です。人口密度は1万3千人/km?強でありさいたま市の区で最も高く、埼玉県の市区町村としても蕨市に次ぐ第2位です。 世帯所得水準や学歴水準は高く、2013年(平成25年)時点の年間収入1000万円以上の世帯が占める割合は15.3%、2010年(平成22年)時点における25歳以上人口のうち大卒・院卒者が占める割合は43.4%です。これは、いずれも埼玉県内の市区町村の中で第1位で、全国の市区町村の中でも年間収入1000万円以上の世帯割合は第13位、25歳以上の大卒・院卒者割合は第15位です。
歴史
浦和市の項目も参照。
古くは調神社や玉蔵院の門前町として栄え、六斎市が開かれました。また、奈良時代には律令制の政庁がおかれ跡地は氷川神社となりました。江戸時代になると中山道浦和宿がおかれ宿場町として発展しました。廃藩置県により浦和県の県庁所在地となり、岩槻県、忍県を合併し埼玉県が誕生した後も現在まで県庁所在地となっています。1883年(明治16年)には県内最古の駅の一つとして浦和駅が開業し、1889年(明治22年)の町村制施行により浦和町が誕生しました。
1923年(大正12年)に関東大震災が発生すると、直前にすでに耕地整理事業が行われ市街中心部の整備が行われていた当地区では比較的震災の被害が少なかったのです(浦和町の死者は3人)ことや首都東京近傍でかつ大宮台地(北足立台地)上にあるという立地条件もあって東京府などから人口が流入し、後の都市化の礎となりました(浦和区#住宅地としても参照)。人口増加に伴い1934年には市制施行し浦和市となります。 また当時「鎌倉文士に浦和画家」と言われましたように数多くの文化人が移り住んだことでも知られ、国内屈指の公立進学校である埼玉県立浦和高等学校前身の旧制浦和中学校、埼玉大学前身の埼玉県師範学校(鳳翔閣)や旧制浦和高校、県内最古の女子校である埼玉県立浦和第一女子高等学校などの教育機関が集積し、浦和は「文教都市」の代表格として知られるようになりました。現在においても大卒・ホワイトカラー層の居住が多く、常盤中学校を筆頭に公立校が私立進学校と同程度支持されるエリアとなっています。
太平洋戦争期には1945年(昭和20年)4月14日には県庁周辺、5月26日には北浦和駅付近が空襲を受け、計17人の死者、740人の罹災者を出しました。これは戦争末期の全国主要都市への空襲の一環で、軍需工場などの存在しない浦和への攻撃は局所的でありました。これが現在も戦前と殆ど変わらない区画の街並みとなっている理由です。常盤や岸町など比較的碁盤の目のように区画が整っているのは、戦後復興によるものではなく、戦前1934年(昭和9年)の耕地整理による区画整理のためです。1941年(昭和16年)には県全域を管轄する浦和連隊区司令部が置かれ、戦後1946年(昭和21年)6月には埼玉会館別館に進駐軍である埼玉軍政部(第79軍政中隊)が置かれました。
戦後も東京都心への通勤の利便性から人口は増え続け、1945年(昭和20年)に9万3,696人だった市人口が1975年(昭和50年)には33万1,145人に膨れ上がったのです。浦和は県政・文化の中心地であると共に大卒者の比率も高く、都内本社へ通勤する埼玉都民のベットタウン的性質もより濃くなっていったのです。人口増による業務増加もあり仲町にあった浦和市役所は狭隘化し、1976年(昭和51年)に常盤の埼玉大学跡に移転しました。さらに都市改造の一環として1981年には浦和駅西口に再開発ビル(浦和コルソ)が建設、駅前広場が拡張され、現在も県下最大の売上高を計上している伊勢丹浦和店が開店しました。それまでは旧中山道や県庁通り沿いが賑わっており十字屋(1984年閉店)などの百貨店や丸井浦和店(1985年閉店)、西友浦和店(1992年閉店)もあったのですが、徐々に駅前周辺部に買い物客の賑わいがシフトしていったのです。1999年(平成11年)浦和市役所跡地に浦和ロイヤルパインズホテルが開業、市内初の超高層建築物でありました。その後駅周辺にて再開発の機運が高まり、エイペックスタワー浦和(2003年竣工)、コスタ・タワー浦和(2006年竣工)などの超高層ビルが完成しました。
2001年(平成13年)に3つの市の合併によりさいたま市が発足、2003年(平成15年)には政令指定都市への移行に伴い市を構成する9区(現在は岩槻区を加え10区)のうちの1つとして浦和区が発足し、現在に至ります。埼玉県庁やさいたま市役所の置かれる行政の中枢として機能しています。また、近年では浦和駅周辺地区を中心に超高層マンションや商業施設などの再開発や道路整備が進められていて、2007年(平成19年)には浦和駅東口に浦和パルコが開店しました。また浦和駅西口南地区では27階建ての再開発も計画されており2020年(平成32年)に完成予定です。その上、上野東京ライン開業などにより東京駅や新宿駅への所要時間が25分と利便性が高まったため、マンション開発が活発化しています。県庁所在地として繁華街を抱えりますが、駅周辺は条例により風俗店などの営業が禁止されています。そのため駅前商業地にあっても比較的治安が良いことで知られ、また落ち着いた雰囲気を維持しています。駅からやや離れた国道17号沿いには埼玉りそな銀行をはじめとしてオフィスが建ち並び、そのさらに外周部となる常盤や岸町などは県内の高級住宅地としても知られています。
さいたま市内の住宅地公示地価の上位1位から4位までが浦和区内となっています。
区の色は浦和をホームタウンとするJリーグのクラブ・浦和レッドダイヤモンズのチームカラーに因んだ赤。
年表
1889年(明治22年) - 町村制施行、浦和宿の範囲をもって浦和町発足。 1934年(昭和9年) - 旧浦和市が市制施行。 2001年(平成13年) - 浦和市・大宮市・与野市の3市が合併し、さいたま市発足。 2003年(平成15年) - 政令指定都市移行に伴い、浦和区発足。
住宅地として
住宅地としての人気は関東大震災以後に高まります。それに先立つ1916年(大正5年)初頭の國民新聞の紙上において東京近郊の理想的な住宅地・別荘地を投票により選定する企画が行われ、浦和町は郊外住宅地部門では9等、別荘地部門では8等に入賞し、良好な郊外住宅地としてすでに認知されていました。具体的な理由も掲載され、東京への近さ、教育環境の充実、下水道整備率の高さなどが挙げられていました。また、鹿島臺(鹿島台・現在の別所沼周辺)の風光明媚さや災害の不安が少ないことも記され、当時はまだ畑も多く宅地開発の余地があった鹿島台が住宅地として注目されていたことが分かります。震災直前には鹿島台に官吏や教員向けの町営住宅を建設していて、また大正11年9月には浦和耕地整理事業が着工し、町としても浦和の住宅地・別荘地の期待や住宅不足に対応するため実際に宅地としての開発が本格化していました。
そんな矢先の1923年(大正12年)関東大震災が発生し、浦和は東京や横浜から移住する人で一気に3000人以上の人口増加が起こったのです。当時の人口は1万2000人程度で、25%の増加率でありました。とくに前述の鹿島台エリアである別所沼周辺には、富裕層や官僚以外にも画家の移住や画家のアトリエが目立ったため、同じような理由で移住が増えた鎌倉の鎌倉文士という言葉と対になる浦和画家という言葉が生まれました。昭和初期には40人以上の画家が集住し、「さながら絵描き村である」と報道されました。その後も現在に至るまで都心から近い閑静な好立地も一因として住宅地の人気を保ち続けています。アトリエの遺構は消えつつありますが、県展の開催される埼玉県立近代美術館やうらわ美術館など美術に関する施設が多く、文教都市としての環境に貢献しています。
人口
浦和区成立後から毎年4月1日の人口。住民基本台帳人口よりです(台帳法改正前の2012年以前は台帳人口+外国人登録人口の数値)。市内では南区、見沼区に次いで人口が多い区です。
| 2003年 | 137,595人 | | | 2004年 | 139,609人 | | | 2005年 | 141,252人 | | | 2006年 | 142,439人 | | | 2007年 | 143,715人 | | | 2008年 | 145,038人 | | | 2009年 | 145,937人 | | | 2010年 | 146,071人 | | | 2011年 | 146,424人 | | | 2012年 | 147,538人 | | | 2013年 | 148,571人 | | | 2014年 | 151,341人 | | | 2015年 | 154,049人 | |
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地域
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| | 国 | 日本 |
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| 地方 | 関東地方 |
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| 都道府県 | 埼玉県 |
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| 市 | さいたま市 |
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| 団体コード | 11107-4 |
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| 面積 | 11.51km? 推計人口、2016年2月1日) |
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| 人口密度 | 13,470人/km? |
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隣接自治体 大宮区、見沼区、中央区、 南区、緑区) |
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| 区の花 | ニチニチソウ |
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| 区の色 | ■あか |
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| 浦和区役所 |
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| 所在地 | 〒330-9586 北緯35度51分41.8秒東経139度38分43.8秒
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